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​『 新庄亀綾織 』の歴史

 新庄藩は、二代藩主戸澤正誠(まさのぶ)の放漫財政と度重なる冷害凶作によって、三代以降の藩財政は極度に困窮したが、九代藩主戸澤正胤(まさつぐ)の時代になり、米沢藩が財政を立て直したことを範として、勤倹節約・国産奨励に取り組んだ。その一つが、文政13年(1830)に上州方面から織師を招き、絹織物を指導、開発させたことである。この頃招かれた人物で名の残っているのは、桐生の吉十郎、館林の初五郎、佐野の将治、そして長内三十郎などである。この長内三十郎が、家中石川町の小山氏屋敷内に、水車仕掛けの織場を設け、指導の傍ら研究を進め、亀甲型の絹織物を発明し、亀綾織と名付けたと伝えられている。その後、亀甲紋、紗綾織、菱織など数十種類の絹織物が織り出されていたようだが、一括して亀綾織と呼ばれた。なお、吉十郎・勝五郎・将治の三人は、亀綾織による三十三観音の掛仏を織り上げ、現在、市内鉄砲町の長泉寺に所蔵されている。絹織物による掛仏は、全国的にも珍しい。

 こうして藩内では、家中のほとんどの家で屋敷畑に桑を植え、蚕を飼い、糸を紡いで絹布を織ったが、これは藩士婦女子の唯一の内職であった。製品は白布のまま江戸に売り捌かれた。

 明治元年(1868)の戊辰戦争により、各戸が全焼し用具の一切を失い、一時途絶えるものの、明治3年(1870)に藩主戸澤正實(まさざね)が、困窮している旧藩士救済のために、常盤町の藩主別邸に授産場を設け、士族の婦女子を集めて機織を指導させ、亀綾織が再興された。明治14年(1881)9月には、明治天皇東北御巡幸の際、産業推奨のため亀綾織の大八つ橋ほか8種類17疋34反をお買上げになった。

 その後、資金難のため授産所も続かなくなり閉鎖されたが、明治21年(1888)に農商務省より資金を借りて再興し、講師として桐生の森山芳右衛門を迎え、約半年間指導を受けた。しかし、明治36年(1903)頃に再び閉鎖され、その後は、個人経営の産業場3~4戸、他に個人の家内工業(内職)を続けた家が数戸あったが、明治36年に県立中学校が創設されるに及び、養蚕に便利な部屋は下宿に使用されるようになり、ついに亀綾織は途絶えてしまった。

 この特産品の衰微を惜しみ、大正3年(1914)大竹スエ氏が神明町に織場を作り、電力による織機を取り付け、織物を開始したものの、業界の不況と亀綾織の技術の機械化が困難なためコスト高となったことから経営に行き詰まり、大正15年(1926)閉鎖された。その後も、昭和6年(1931)に渋江トキノ氏が、戦後の昭和21年(1946)には福井吉之助氏が復興を試みたが実を結ぶに至らなかった。

 こうして、旧藩時代からの由緒ある亀綾織も、幻の織物として名だけが残り、地域の人々から惜しまれた。

新庄亀綾織の歴史略年表

​1830年

1868年

1870年

1888年

1903年

​1914年

1919年

1926年

1931年

1946年

1981年

1982年

1985年

1986年

2001年

2017年

2018年

​2020年

新庄藩9代藩主戸澤正胤(まさつぐ)が上州(群馬県)から技術者を招き、藩の特産品として奨励したのが始まり。

戊辰戦争で道具がすべて焼失。

藩主正実が授産場を設け、士族の婦女子を集めて機織りを再開。

資金難により授産場が閉鎖されたが、農商務省より資金を借り再興。

再び閉鎖。県立中学校開校に伴い、養蚕部屋は下宿として利用され、ついに亀綾織途絶える。

神明町大竹邸へ産業所が移る。

大竹氏、電力による織機により織物を開始。

業界の不況と、亀綾織りの技術の機械化が困難なためコスト高となり、経営に行き詰まり閉鎖。

再興を試みるも断念。

再興を試みるも断念。

最上モデル定住圏における地域特産品の開発調査」で新庄亀綾織が選定され、調査部会活動が開始。

新庄市では亀綾織の復元を県工業技術センター置賜試験所へ委託し、紗綾形、八つ橋織など9種類の復元に成功。

新庄亀綾織伝承協会が発足。置賜試験場宮下専門員を講師に招き、亀綾織についての学習運動を始めた。

実技学習活動が実を結び、亀綾織の基本といわれる「紗綾形」の復元に成功。

新庄駅前通りに体験工房「機織り長屋」をオープン。

「新庄亀綾織」とロゴマークを商標登録。「機織り長屋」を閉鎖し、新庄市十日町に「新庄亀綾織伝承協会」を

置く。「新庄亀綾織復興プロジェクト」を立ち上げる。

「新庄亀綾織」お披露目会を開催。「新庄亀綾織」「新庄綾織」「最上新庄織」の3つのブランドを確立。

「新庄亀綾織伝承協会」を「新庄市 エコロジーガーデン 原蚕の杜」内に移転する。

​市指定文化財に登録される。

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