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山形新聞に寄稿させていただきました

 山形新聞社様より阿部会長に、新庄亀綾織伝承協会の移転を機に山形新聞のオピニオン『提言』への寄稿依頼をいただきました。阿部会長の意向を受け、広報部内で内容について検討し、新庄亀綾織伝承協会の現状と課題、今後の展望について、沓澤広報部長名で寄稿させていただき、2017年6月14日付の山形新聞に掲載をいただきました。少々長くなりますが、以下に、その内容を掲載しますので、ご覧ください。なお、新聞紙上のものは一部手直しが入っておりますので、手直し前の元原稿を掲載させていただきます。

 ちなみに、以前にも中部前会長が同紙『提言』へ寄稿しており、掲載されたのが2007年6月15日付でした。奇しくも今回、丁度10年後に掲載されたことに深い因縁を感じます。

*山形新聞オピニオン「提言」原稿

 新庄亀綾織は、1830年に新庄藩9代藩主・戸澤正胤が上州方面から織師を招き、絹織物を指導・開発させたことに始まり、30数種類の亀綾織が発明され、特産品として生産された。だが、1868年の戊辰戦争により用具の一切が焼失し、一時途絶えた。その後、幾度か再興するものの衰退または復活できず、ついには幻の絹織物となってしまった。しかし、1981年に亀綾織が、国のモデル定住圏の推進支援調査の「最上モデル定住圏における地域特産の開発に関する調査」対象に選定されたことにより、山形県が調査部会を設立し、翌年に山形県工業技術センター置賜試験場において、9種類の織りの復元に成功した。1985年には「新庄亀綾織伝承協会」が設立され、翌年には亀綾織の基本型といわれる紗綾形の復元に成功し、現在では20数種類の復元に成功している。しかしながら、「新庄亀綾織伝承協会」が発足した当時に10名前後いた織手も、今現在ではわずか3名にとどまり、今後の存続も危ぶまれる状況にある。

 国のモデル事業から、県を中心にして再び復興された新庄亀綾織が、なぜこのような衰退の道にあるのか。理由はいくつかあるのだが、そのひとつが、皮肉なことに新庄亀綾織の素晴らしい特色にある。新庄亀綾織の大きな特色は、他の絹織物や機械織では決して見られない、しっとりとした風合いと気品ある光沢、しなやかな手触りである。これは、高度な織技術を要する、きめ細やかで多彩な地紋である斜文織(綾織)という独特の織り方と、生糸で織り上げたものをじっくり煮て不純物を洗い落とす後練り(後精錬)によって生み出される。そのため、一反の着物生地を生産するのに、織りだけでも早くて4か月を要する。また、後染めになるため、白生地での販売となる。つまり、手間がかかり大量生産ができないため、必然的に高価な絹織物になってしまう。さらに卸売業者も、購入した白生地を染色してからの販売となるため、その経費も掛かってしまう。したがって、採算を考えると手を出しにくい商品であることから、販路の拡大の努力もなされず、残念ながら、地域特産とはならなかったのである。

 その結果、「新庄亀綾織伝承協会」は、独立しての存続には無理があり、新庄市のご支援をいただきながら、新庄亀綾織の保存に主眼を置いて活動をしてきた。今年度も新庄市から補助金の増額があり、おかげさまで何とか2名の常勤を置くことができるようになった。しかし、織り上げた白生地を染め上げた上で小間物を製作し、商品として販売するなどの収入はあるものの、さらに織手を募集する余裕は残念ながらない。実際、3名の織手以外の会員は、私を含め無報酬で活動している。織手の報酬も、必ずしも十分とは言えない。

 そこで昨年から計画し、取り組んで来たのが、希少価値の高い高級絹織物としての「新庄亀綾織」をブランド化し、商品として販路を拡大し、独立採算制を目指す取り組みである。もっと言えば、「新庄亀綾織伝承協会」の企業化である。新庄亀綾織を伝承し、保存していくには、織手の確保と育成が欠かせない。そのためには、織手の生活も保障しなければならない。織手の生活を保証することで「新庄亀綾織」も伝承されるのである。伝統工芸品だからと言って、いつまでも自治体におんぶに抱っこでは将来は望めないのではないだろうか。

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